『Fate/hollow ataraxia』のヤバさについて語らせてくれ

みなさーん!『Fate/hollow ataraxia』やってますか~!!

 

 

 

 

 

 

地獄に落ちろ!!!!!!

 

 

えークソみたいな内輪ノリは置いときまして、皆さんはTYPEMOONを代表するノベルゲーム『Fate/stay night』の続編である『Fate/hollow ataraxia』をプレイしたことがありますでしょうか。恐らく聞いたことがない人、知ってるけどやったことがない人は多いのではないでしょうか。

それもそのはず、ステイナイトは何度も何度もアニメ、映画化しているのにアタラクシアのメディア化は0!フェイト関連の作品はエクストラ、アポクリファ、グランドオーダーなどアニメ化してるのに、肝心な続編のアタラクシアは音沙汰なし。実は発売は2005年なのでもう既に16年たっているのですが、未だにメディア化される気配はありません。まあプレイした側の人間からするとあれをアニメ、映画化するのはほぼ不可能かなと思っているのでそれほどダメージはうけていませんが...

 

【注意!ここから大きなネタバレ】

そもそもアタラクシアというのはどういったゲームなのかという所から説明させてください。

ステイナイトを知っている前提で話を進めますがアタラクシアの舞台は主人公衛宮士郎聖杯戦争を勝ち抜き聖杯を破壊した後日談という態で始まります。

 

10月8日がこの物語の始まりの日です

本来聖杯戦争が終わるとサーバントたちは消滅します。しかしアタラクシアの中では、セイバーもその他の前作で消えていったサーバントたちも皆存在しています。

サーヴァントやマスターたちは争うことなく皆が各々の日常生活を送っています。

そうです、アタラクシアとはいわば『Fate/staynight』の"スピンオフ"なんです。ステイナイトを見ていて僕はつくづく思いました。彼彼女らの日常が見たい。そんな僕の願いを公式という聖杯が叶えてくれたのがこのアタラクシアというゲームです。

 

※この文の中では度々「スピンオフ」というワードが登場しますが、ここでのスピンオフはFatezeroのような実際にあった同じ世界線の前日譚のようなものではなく、二次創作的な意味で捉えて下さい

 

セイバーの世俗に染まった生活、イリヤと士郎の本編ではありえなかった姉(妹)と弟(兄)として過ごす甘い時間、悪友として接する慎二、冬木の世話焼きなアニキとして神出鬼没に現れるランサー、人妻として振舞うキャスター、子供たちのヒーローとして崇められるギル。その他の本編では決して見れなかった光景が公式からの供給で見れる。しかもフルボイスで(Vita版)

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サッカーをするセイバー(かわいいね)

これがアタラクシアです。

 

公式がつくった二次創作それがホロウアタラクシア

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と最初は僕も思ってました

 

 

 

 

 

甘いです

 

ここでアタラクシアの重要なシステムを説明しておきましょう

先ほどこのゲームの始まりは10月8日と説明しました。そしてこのゲームは3日後の10月11日になると再び内容を引き継いだまま10月8日にリセットされます。つまりこのゲームは10月8日から10月11日ひたすら繰り返すわけです。

 

なんか変じゃないですか?

だってこのゲームは公式が僕らの願望を叶えるためにつくってくれた"スピンオフ"のゲームなんですよね?だったら繰り返すよりもそのまま時間を進めたほうが都合がよくないですか?そうしたら冬は年末年始のイベントができるし、春は花見ができるし、夏は海水浴に行けるわけだし。なんかもったいないと思いませんか?

 

そうです。このゲームのメインはそっちにあります。

ステイナイトを視聴した人なら知っていると思いますが、ランサーの本来のマスターは言峰綺麗ではありません。彼の本当のマスターはバゼットという女性でした。彼女は前作でも明言されているとおり言峰に殺されてしまうのですが、その際彼女はある別のサーヴァントと契約を交わします。それがアヴェンジャーです。今は、FGOというゲームによってだいぶ一般的になったクラスですが、アヴェンジャーとは例外も例外、本来存在しないクラスです。そんな彼が彼女と契約した際に彼女を生きながらえさせるために発動した能力がこのループする4日間でした。この4日間は彼が第3次聖杯戦争にて召喚されてから倒されるまでの4日間、つまり衛宮士郎が過ごしているこの10月8日から10月11日まではアヴェンジャーが作り出した第3次聖杯戦争の写し、いわゆる偽りの4日間というわけです。

 

これを作中で明かされた時、やられた...と心から脱帽したことを覚えています。

 

スピンオフには賛否があります。スピンオフとは言ってしまえばあったかもしれなかった世界線、つまり、逆にいえばありえない世界です。スピンオフは我々にこんな幸福な生活もあったかもしれないという希望をくれます。しかしそれは捉える人によっては絶望です。スピンオフはその熱い戦いを否定します。感動的な別れを否定します。ないのです。スピンオフ内ではそんなものあってはならないのです。原作では死んでしまったキャラを二次創作で生き返らせることの是非は未だに尽きることのない話題です。

僕はアタラクシアはこのスピンオフというものに対するアイロニー的存在だと思っています。ステイナイトに登場したキャラクターの皮を被った偽りの人形が4日間のループの箱庭の中で日常を演じる。しかも公式による提供で。こんなの公式からスピンオフはスピンオフでしかねーんだよと舌を出されたようなもんです。

作中のサーヴァントらは皆その事実に気づいています。しかし決してこの4日間を止めるつもりはありません。ある一人がこの偽りに気づくまでは。

それが主人公衛宮士郎。彼は何度も4日間をループするうちに段々と真実に近づいていきます。

聖杯戦争のために現界したサーヴァントには前世での未練があります。彼彼女らはその未練を聖杯の力によって果たすべく現世に現れました。では彼彼女らにとってのこの4日間とは何のためにあるのでしょう?何の意味もありません。過ごす意味はあるが過ごさない意味もない。無意味なのです。では士郎にとってはどうでしょうか?セイバーやイリヤとの何気ない日常は本来存在しえなかったものです。それが目の前にある。これは正しいことなのでしょうか?当然これは偽りの日常です。このループの中にいれば一生セイバーたちと過ごすことができます。しかしそれはあくまで偽りの日常の中での話です。決断をしなくてはいけないのです。セイバーたちと別れる決断を。

 

 

まあ何が言いたいかって、このゲームはただのスピンオフではないんだと、むしろ、これはスピンオフはスピンオフでしかなくて、本来の世界の諸行無常の尊さを伝えるためのゲームなんだと。

 

僕はそれまでスピンオフが結構好きでした。なぜならアニメの日常回とかが好きなタイプだったからです。しかしこの作品をプレイしてからそうとも言えなくなってしまいました。死んだキャラも存在するスピンオフ。しかしそこに彼彼女らの本編での死に際に我々に残していった思いはありません。戦いの中で受け取った仲間や敵の感情、意思はありません。死んでしまっているのです。そこにあるのはただの虚無です。ホロウアタラクシアという作品は我々にその偽りの日常をまじまじと見せることで、逆にセイバーたちのいない日常の尊さを伝えているように感じます。

 

某料理系のFateのスピンオフでは登場キャラクター皆が登場します。アタラクシア内ですら死んだことになっている言峰も存在します。アタラクシアと違って季節が流れます。幸せな日常が流れます。ただ、僕にはどうしてもこの幸せが空虚に感じられてしまいます。ただ、決して僕はそれを否定しているわけではありません。なぜならこれはあくまで"スピンオフ"。本編とは一切関わりのない、あったかもしれない全く別の世界線なのだから

 

 

 

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何とか僕もループから抜けれて良かったです。